53. 水に裁かれる

 神社に行くと、必ず水社があり、そして柄杓が置いてあり、手を洗ったり口をゆすいだりします。簡単な禊払いが、行われます。
 ここでは、まず水により清められ、いろんな穢れが払われ、綺麗なかたちで神様への出会いを受けるのです。
 なぜ、ここで水が使われるのでしょうか。神と言う字を少し分けて考えると、「か」は「火」であり、「み」は「水」を表すとよく言われております。その通りだと思われます。火と水により、人は生かされているのです。勾玉を翡翠で造るのも、これもまた「火」と「水」を表します。
 右手・左手も右は「水の手」、左は「火の手」、そして両手を合わせて、右手を一節引いて打ち鳴らせ、その音を聞き、神は現れる。そして、願いを聞くことになります。
 こんなふうに、水に関する考え方が多種多様にありますが、やはり水はそのような能力を持っていると昔から考えられてきたのでしょう。水を侮るではない、そんな気がしてきます。  
 私たちは、この水により、全て見透かされているのかもしれません。しかし、水の素晴らしさは、私たちを裁くだけではありません。それと同時に、必ず、清めてくれます。生きるための穢れや、汚れを清めてくれるのは、その水です。穢れを払うことも、水によって簡単に行われてしまうのです。
 水は、みず、要するに、自分を表します。「みずから」の「みず」でもあるのです。しかし水は、なんて素晴らしいのでしょうか。生きるもの全ての命の根源であり、その透明な意識は、全てを包み込み、大地と宇宙と感応しながら、私たちを清めてくれるのです。
 もっと、水に感謝し、水を尊敬し、水を大切にしなければなりません。
 水により、本性が明かされ、全てが清められたならば、それは決して裁きではないのです。未来に向かう、優しさではないでしょうか。
 水に私たち人間が弾き飛ばされないように気をつけたいものです。